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山本 鼎
YAMAMOTO Kanae

1882-1946(明治15-昭和21)

愛知県岡崎市に生まれる。木版の工房に奉公し木口木版技法を習得。1902(明治35)年、東京美術学校入学。1904(明治37)年、雑誌『明星』に木口木版《漁夫》を発表、新たな“刀画”として注目される。1906(明治39)年、東京美術学校卒業。1907(明治40)年、森田恒友、石井柏亭らと同人誌『方寸』を創刊、創作版画運動の先駆をなした。1912(明治45)年より1917(大正6)年にかけて滞欧。帰国後、再興日本美術院洋画部同人に迎えられて、滞欧作《ブルトンヌ》等を発表。1918(大正7)年、織田一磨、戸張狐雁らと日本創作版画協会を興して創作版画発展に尽力すると共に、翌年長野に日本農民美術研究所を設立、また自由画運動を推進する等多方面に功績を遺した。1922(大正10)年、春陽会創立に参加し、会員となる。1935(昭和10)年同会を退会するが、1943(昭和18)年復帰した。長野県上田市に没する。同地に上田山本鼎記念館がある。


斧

1905(明治38)年
木版、紙 15.0×10.0cm
昭和58年度購入

錆びた斧を持つ男伊佐奈が、秘められた思い出の樹木を挟んで妻と言い争う。「伊佐奈は海の人なり、壮年橘の樹蔭に蜑の少女を慕いて戀の敵なるその友を殺せり。されど少女の意は彼に嚮はずして、亡き人の後を逐ひて海に沈みき。伊佐奈はこれより山中にさまよい、迅雷の一夜、端しなくも宿りし家の女と相結ぶに至る。妻の止利といふはこの女なり。海の紀念なる珊瑚と眞珠とは止利が念珠を飾れり。唯橘の實を秘して、私かに門辺に埋めおきぬ。橘は芽ざしてより既に四十年を経たれども、未だ會て花さかず實らず。こはまた宛ら伊佐奈の胸中なり。」(『春鳥集』「 斧」よりそして男はなおも秘密を妻に語らぬままに橘の木を詛って倒そうとし、妻に止められる。しかし妻もまた妖鏡から事実を知らされながら嫉妬に満ちた胸中を40年来秘して来た。悲劇のラストシ−ンである。象徴主義の詩人蒲原有明の詩集『春鳥集』の為に制作されたこの作品は、青木繁の原画を山本鼎が木口木版としたもの。青木繁が蒲原を通じて知ったラファエル前派のロマン的な香気を漂わす。挿絵として「詩人と画人のよく一致した例」と言われる本作は、山本鼎の『明星』に寄せた《漁夫》と共に、創作版画の先駆的な作例とされている。


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