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エドワルド・ムンク
Edvard MUNCH

1863-1944

クリスチャニア(現オスロ)近郊の由緒ある家系に生まれる。「病と狂気と死の黒い天使の群が私の揺藍を見まもっていた」という回想のように、4歳で母を、13歳で姉を失い、彼自身も幼時から病身だった。1884年、故郷のボヘミアン運勤に加わリ(その九戒の第一は「汝は自らの生を書くべし」という)、1885年と89年に奨学金を得てパリに留学。印象派と後期印象派の影響を受けて自然主義を脱皮し、時代の不安な精神現象を装飾壁画風に構想した≪生のフリーズ≫連作に着手する。1892年ベルリン美術家協会に招かれて55点を出品し、矯激な作風でスキャンダルを惹起。これを機に同地の象徴派グループと親交を深め、「見えるもの」よりは「嘗て見たもの」、つまり眼の裏側に宿った記憶形象の象徴化に努める。1900年前後から幻想的なヴィジョンは後退するが、追跡妄想に憑かれるなど心身は疲弊し、1908年コペンハーゲンのサナトリウムに入院。翌年帰郷してオスロ大学講堂壁画のコンペに勝利し、フォーヴ調の生命主義的な作風に転じた。その画業は終始、「光と闇の世界の二元性」(ベネシュ)に基づき、闇から光に向かって展開したと言えよう。ナチス占領下の故国エーケリで孤独のうちに生涯を閉じる。遺志により、オスロ市に厖大な遺作が寄贈され、1963年市立ムンク美術館の開設にいたった。


ヴァンパイア

ヴァンパイア

1895-1902年
カラー・リトグラフ,カラー木版,紙
38.5×56.3cm
昭和59年度購入

ヴァンパイア(吸血鬼)は、1893年以来ムンクが手がけ続けたモティーフで、パステル、素描、油彩、版画など多数の作例がある。その版画化はまず、1895年に単色リトグラフで試みられ、手彩色版を経て、リト石2枚と鋸で三分割された木版の組刷として完成された。ムンクは生涯に800以上の版画をイメージ化し、遺品に17,000もの版画を残した。また種々の技法実験を通じて、「芸術は結晶化を求める人間の衝動だ」という造形埋念の追求に努めた。---けれどもムンクの「結晶化(Kristallisation)」理念は、間断ない様式純化の範囲に止まるものではない。「死は生の開始であり、新たな結晶化の開始である。……骨壺から再生が生じる」と自ら述ぺているように、生に対する破壊的要素は逆に自己のメタボリズム(再生)=結晶化の契機と考えられていた。したがってここに見られる、赤髪の女が男の項の血を吸うという世紀末的な破壊的モティーフも、ムンクにとって「地上の汚穢の彼岸」にいたる触媒だったのである。本図の男は初めフィンランドの作家アドルフ・パウルがモデルだったが、やがてムンク自身の横顔に変えられたのも、“闇と光”のアンビバレント(二元価値的)な状況設定を自己救済の場と見なす、ムンクの追及の執拗さを物語っている。(S)


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