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佐伯 祐三
SAEKI Yuzo

1898-1928(明治31-昭和3)

大阪中津の寺に生まれる。北野中学在学中から赤松麟作の画塾でデッサンを学ぶ。1917(大正6)年上京、川端画学校に学び、翌年東京美術学校に入学。間もなく父・弟の死や兄の許嫁の自殺などが重なり、生と死の不安を自我の間題として生きることがならわいとなる。1921(大正10)年、池田米子と結婚、下落合にアトリエを構えた。1923(大正12)年、東京美術学校卒。美校の同級生と「薔薇門社」を結成し、展覧会を開く。大震災後の同年11月、妻子および友人と渡仏。翌年パリに着き、グランド・ショミエール自由科に通う。初めセザンヌに関心を抱き、多くの実作に触れた。この年の夏、里見勝蔵とともにその師ヴラマンクをオーヴェルに訪ね批評を乞うが,「このアカデミスム!」の怒声を浴びる。以来オワーズ河周辺にヴラマンク好みのモティーフを探索し、作風は急速に激烈なフォーヴ調へと変わった。1925(大正14)年1月にはクラマールから市内のリュ・デュ・シャトーに転居。年の半ばにユトリロを見て感動し、パリの街景を描き続ける。同年10月、米子とともにサロン・ドートンヌに入選。翌年3月帰朝した。同年5月、里見や前田寛治らと一九三○年協会を結成。同年9月の第23回二科展に滞欧作18点を出品し、二科賞を得る。だが日本の風景によっては自己の造形理念を実現できぬと焦慮し、1927(昭和2)年夏、京城、モスクワを経て再びパリに行く。すさまじい制作力をもって、広告の文字や線を乱舞させる狂燥な画風を試みた後、翌年には≪モラン風景≫を連作、フォーヴの技法によって堅固な構築性を追求したが、肺患に加えて神経衰弱も高じ、同年6月セーヌ県立エブラール精神病院に入院。8月16日、同病院で30歳の生涯を終えた。


ラ・クロッシユ

ラ・クロッシユ

1927(昭和2)年
油彩,キャンヴァス 52.5×64.0cm
昭和59年度購入

日本の風景モティーフによっては自分の造形理念を実現できないと焦慮した佐伯は、1927(昭和2)年再びパリに行き、尖鋭なフォーヴィスムの手法で自己を燃焼し尽すことになる。
パリの街頭風景を描いたこの絵も第二次滞仏期の作。画題の「ラ・クロッシュ」(時を告げる鐘の意)の文字が壁の落書きに見える。平面的に構成された建造物は物質感と構築性が強調され、かつ白が随所に塗られて或る静まりを示すが、乱舞するポスターの文字が画面を激しく躍動させており、この静と動のはざまを影のような点景人物がひっそり歩いている。激しい生の燃焼を願った作者の、しかも醒めた眼が窺われる、すぐれて内面的な作品である。以前は「サン・ミッシェルの街」と題されていた。(S)


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