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円山 応挙
MARUYAMA Okyo

1733-1795(享保18-寛政7)

江戸時代後期の代表的画人で、京都近郊(丹波穴太(あのう)村・現在の京都府亀山市外)の農家に生まれる。初名は、岩次郎、通称は主水(もんど)、字は仲選。初期には一嘯・夏雲・仙嶺などと号したが、明和3年(1766)34歳のとき応挙と改め、以後の落款はそれで通している。 若いころに京都に出、町家に仕えながら石田幽汀(1721‐86)に狩野派の画技を学ぶ。また、眼鏡絵制作に携わって西洋輌の透視図法を習得、円満院(滋賀県)主の祐常法親王(1723‐73)と出会ってその蔵画を臨模する機会を得、中国古画や清朝画の写実技法を学習した。写生を基本とする再現的な対象描写と、装飾的な画面構成により、平明で清新な画風を確立、当時の人気を一身に受けた。長沢蘆雪や山口素絢(そけん)など多くの門人を育てて円山派を生み、その伝統は近代の京都画壇にまで及んだ。 円満院・兵庫県大乗寺・香川県金刀比羅宮などに大量の襖絵等がのこされ、≪雨竹風竹図屏風≫(京都市円光寺蔵)・≪雪松図屏風≫(三井文庫蔵)・≪藤棚図屏風≫(根津美術館蔵)などがその遺作として著名である。


木賊(とくさ)に兎図

木賊(とくさ)に兎図

1786(天明6)年
絹本着色 掛幅装 104.5×42.0cm
平成6年度購入

繊細な毛描きと周到な着彩によって描かれた三羽の兎の奥に、付立(つけたて)で引いた緑青あるいは群青の上に、細墨線によって筋目と節を表わした木賊を配している。描写力はきわめてすぐれており、可憐な兎の描写は比類が無い。やわらかな兎の質感と鋭くざらついた木賊の質感も見事な対比を見せている。
本図は、応挙が明和7年(1770)〜安永元年(1772)頃に描いた≪花鳥写生図巻≫(京都・個人蔵)中の第10図(白兎)・第11図(黒兎)などの「写生」が前提となって生まれた作品と考えられる。写生した動植物を画面に配置するに際し、対象と余白の関係は、充分に考慮され、理想的な絵画空間が設定されている。応挙の絵画史的な意義は、まさにこの写生と整形という点にあり、応挙円熟期の力量・本領がじゅうぶんに発揮された秀作として注目される。
なお、兎の周囲、外隈風に施された淡墨の上に、かすかだが確かに白雲母(きら)が蒔かれている。これは、月光のきらめきをあらわすものであり、「月下の兎」を描いたものだという魅力的な解釈が提起されている。「丙午仲秋」という午記にしめされた季節も、その解釈にふさわしいものである。応挙の試みたこうした繊細な表現を、じっくりと味わっていただきたい。(Yy)


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